1 「医療人権部会」設置の経緯
本審議会は、平成9年(1997 年)4月に知事から「大阪府障害保健福祉圏域における精神障害者の生活支援施策の方向とシステムづくりについて」の諮問を受け、生活支援部会を設けて審議を行い、同年 12 月に中間答申を行った。
しかし、その間に大和川病院事件が表面化し、精神障害者の人権侵害の実態が明らかになった。そのため、人権擁護の視点を深めるべく「生活支援部会」を「生活・人権部会」と改称し、精神障害当事者を含めた新たな委員の参加を求め、新しい審議会運営を試み、平成 11 年(1999 年)3月に答申するに至った。
この「生活・人権部会」の審議の中で、「医療の確保」については改めて審議すべき重要な課題として位置づけ、答申では、地域での自立生活を支える視点からの医療のあり方について提言することとなり、精神病院内における患者の人権尊重を基本とした処遇等については、新たに、本審議会に「医療人権部会」を設置して、引き続き集中的に審議することとなった。
その結果、生活・人権部会と同様に、精神障害当事者を含めた民間の有識者を新たな委員として審議会運営を引き続き行い、『精神病院内における人権尊重を基本とした適正な医療の提供と処遇の向上』について意見具申することとした。
大和川病院事件とは、次のような内容である。平成5年(1993 年)2月、大和川病院(大阪府柏原市大字高井田)に入院中何者かから暴行を受けた患者が、他の病院に転院後に死亡した事件が報道された。大和川病院は、以前より入院患者に対する不適切な医療や処遇などの問題が指摘されていたが、この死亡事件を契機として、過去長期にわたる不正が明確なものとなり、平成9年(1997 年)10 月、廃院の措置が取られた。
この事件は、入院患者に対する劣悪な医療内容のみならず、任意入院患者に対する違法な退院制限、入院患者に対する違法な隔離・拘束、常勤の精神保健指定医不在のままの医療保護入院の実施、医療保護入院に際しての精神保健指定医の診察義務違反、患者の代理人である弁護士への面会拒否等の実態を明らかにした。
大和川病院事件は、精神障害者の人権を大きく侵害する事件として全国的にも注目され、今般の「精神保健及び精神障害者福祉に関する法律(以下「精神保健福祉法」という。)」の改正にも影響をおよぼした。
さらに、本事件は、[1]我が国の精神科医療が、なお非医療的な、単に精神病院に入院(収容)させて地域から隔離するといった機能を残していること、[2]精神障害者のことを正しく理解していなければならないはずの精神病院内において、人権侵害が行われていた事実が発覚したことで、精神科医療に従事する者でも偏見と差別意識があることが改めて明らかになったこと、[3]こうした精神障害者に対する差別意識は、適切な精神科医療を受ける権利を持つ精神障害者とその家族にとって、医療を受ける上で大きな障害となり、社会復帰を遅らせる原因となっていること、などの諸問題を改めて提起するところとなった。
大阪府は、来る 21 世紀を「人権の世紀」とすべく、国際的な取り組みである「人権教育のための国連 10 年」の推進や、平成 10 年(1998 年)11 月に「大阪府人権尊重の社会づくり条例」を施行するなど、人権尊重の社会づくりに向けた取り組みを進めているところである。
しかし、大和川病院事件は、それまでの精神保健福祉行政の不備と精神病院における人権侵害の事実とを改めて浮き彫りにするものであった。
大阪府及び精神科医療関係者は、この事件を深く反省し、二度とこうした事件を生じさせないためには、新たな、より強固な人権擁護システムの確立が喫緊の課題であることを、強く認識するに至った。
2 人権とは何か
本審議会においては、まず初めに、主として精神病院に入院中の精神障害者が主張できる権利、決して剥奪又は制限されない権利として有する「人権」とは何かについて、日本国憲法の根幹を成す基本的人権擁護の理念と国際的に承認されている基本的な考え方をもとに審議し、概ね次のような結論を得た。
まず、人権一般ではなく、精神障害者の人権とは何かという視点から問題を整理することの重要性が認識された。
人権は、本来全ての人に等しく保障されているはずであるのに、何故、精神障害者の人権ということが強調されなければならないのか。この点にこそ、精神障害者、とりわけ入院中の精神障害者が受けてきた深刻な人権侵害の状況が端的に示されている。
本審議会に「医療人権部会」が設置される契機となった前述の大和川病院事件やその他の精神病院における不祥事を引き合いに出すまでもなく、精神障害者に対する人権の保障は、未だ著しく不十分であり、人権擁護を徹底するための諸方策の早急な具体化が強く求められている。
そのためには、守られるべき精神障害者の人権とは何かを明らかにし、全体の共通認識としておくことが重要である。
精神障害者には、日本国憲法、世界人権宣言、障害者の権利に関する宣言や経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約(社会権規約)、市民的及び政治的権利に関する国際規約(自由権規約)、精神疾患を有する者の保護及びメンタルヘルスケアの改善のための諸原則(以下、一部を除き「国連原則」という。)などに規定された諸権利が保障されなければならない。
これらの諸権利について、我が国の法律レベルで具体化されたものが精神保健福祉法ないし関係諸法令ということになるが、その内容は十分なものとは言い難く、精神障害者に対する人権侵害を許す結果となっている。
我が国においては、先進諸外国と比べて多くの精神障害者が精神病院に入院している、あるいは、させられているので、ここでは、「入院中の精神障害者の権利」を中心として具体的に列記すれば、概ね次のとおりであろう。
日本国憲法、国連原則1・13 などで明確にされているとおり、個人の尊厳を尊重される権利は、人として有する当然の権利である。
しかし、入院中の精神障害者を呼び捨てにし、あるいは番号で呼ぶ精神病院があるとの訴えや、入院患者に対する暴行、虐待、懲罰あるいは無視が行われているなどの訴えが数多く寄せられている。
さらに、プライバシーの保護が極めて不十分である。例えば、個人用ロッカーが病室に設けられていない病院も多く、精神障害者が私物を保管できず、院内で自身の衣服を自由に着用するなどして生活を潤いのあるものにすることを阻害されている。
入院患者は、小遣い銭の自己管理もさせてもらえないことが多く、仮に病院側が管理する場合でも、その使途が裏付け資料とともに納得できる形で明らかにされないことがある。
これらに限らず、精神障害者が個人として尊重されていない例はしばしば見られるが、早急な改善が行われるべきであるとともに、精神科医療従事職員の人権意識の向上が求められる。
精神科病院の医師・看護者の数が、一般科より少なくてよしとする医療法の精神科特例は、今や実情にそぐわず、合理的な理由が薄れており、適切な医療を受ける権利を阻害するもので任意入院であるにもかかわらず、その半数以上が閉鎖病棟に入院させられているという実情は、早急に改善される必要がある。
精神科医療は、治療の名の下に様々な強制、権利制限などがしばしば行われているが、治療とは無縁の、個々の入院患者の病状とは関係のない、単なる隔離・収容のための強制、権利制限に過ぎない場合が往々にして見受けられる。しかし、国連原則9が規定しているように「すべての患者は、最も制限の少ない環境で、最も制約が少なく、もしくは最も侵襲が少なく、かつ自らの健康上のニーズと他の者の身体的安全を保護する必要に照らして、適切と考えられる治療を受ける権利を持つ」のであるから、安易な強制、権利制限は許されないという認識をより浸透させることが求められる。
精神障害者に対する治療及びケアは、資格を持つ専門職員によって個別に作成される治療計画に基づくものとし、その計画は精神障害者も参加して検討され、定期的に見直され、必要な変更がなされなければならない(国連原則9)。
上記2、3は、いずれもインフォームド・コンセント(informed consent)の問題でもある。
精神障害者は、原則として、治療の内容について適切な情報が提供され、正確かつ分かりやすい説明を受け、それらを理解した上で、同意あるいは不同意を選択する権利を保障されなければならない。
精神障害者は、入院時に自らの権利について告知を受ける権利を有するだけでなく、入院中はいつでも自らの権利について情報の提供及び説明を受ける権利を有している。
また、権利が精神障害者だけでなく、広く精神科医療従事職員、家族等の共通認識となるよう広報、啓発され、その保障のため種々の配慮を行うことが必要である。
入院中の精神障害者にとって、家族・友人・知人あるいは権利擁護の援助者など外部の第三者と通信・面会等により自由に交流できることは、生きる力を活性化し、早期に社会復帰・社会参加していく上で極めて重要である(国連原則 13)。
精神病院における治療・処遇は、様々な強制、権利制限を伴っていることがしばしばあるが、それらが常に必要かつ他に代替手段がない場合ばかりとは言えない。
むしろ、これまでの精神科医療の歴史は、強制、権利制限が合理的理由もないのに濫用されてきたことが多かったことを示している。大和川病院事件はその最も典型的な例である。
精神障害者は、このような違法・不当な治療・処遇に対して、第三者機関に不服申立てをする権利を保障されていなければならない。その第三者機関が独立、公正で、かつ迅速な処理能力を持ったものでない限り、この権利が実質的に保障されているとは言えない。
上記7の不服申立権の行使はもちろんのこと、治療計画や退院後の生活設計の検討に参加するためには、弁護士などの法律家、精神科ソーシャルワーカーなど医療・福祉の専門家などの援助を受けられることが極めて重要である。
上述の8つの権利を中心とする精神障害者の権利も、それを行使することによって、かえって入院患者が不利益を受けるような精神病院内の体質・雰囲気であれば、精神障害者はとてもそれを行使する気持ちにはなれないであろうし、権利は絵に画いた餅となってしまう。
権利が精神障害者、その家族、精神科医療従事職員などの間で共通の認識となり、権利を行使することがより適切な医療を実現する上で必要なステップと位置付けられ、権利行使することによる不利益を何ら心配する必要がなく、万一不利益を蒙った場合には、その除去と権利の回復が速やかになされるという態勢の確立が必要である。
精神障害者の人権やその権利擁護態勢の確立と言うとき、何故、今日まで人権侵害が繰り返し行われてきたのか、何故、長期間それらの事態が放置されてきたのか、何故、精神障害のある人もない人も地域で安心して暮らせる社会(障害者と共に生きる社会)を目指すのではなく、精神障害者を社会から隔離する方策が採られてきたのか、精神障害者に対する差別と偏見が何に起因し、何によって助長されてきたのかを根底的に見つめ直すことなしには、その実現は不可能であるこれらを踏まえた上で重要なのは、[1]精神障害者の人権擁護とは、精神障害者が本来有しているはずの人権を実質的に保障すること(すなわち、人権侵害を未然に防止すること)及び人権侵害が発生した場合には、迅速にその救済が図られることの二つの意味を有するものであり、[2]人権擁護システムとは、この両面に対応できるものでなくてはならず、[3]そのためには、医療、福祉、人権救済のための諸制度を中心とした多面的かつ体系的な施策が不可欠である、という認識を共通のものとすることである。
3 意見具申の構成
人権尊重を基本とした適正な医療の提供を確保するためには、個々の病院における改善への取り組みはもちろん、精神保健福祉法に基づく精神医療審査会及び精神病院に対する指導監督等の機能の強化、その他の第三者人権擁護機関の制度化、さらに、医療の透明性を高めるための情報公開や適切な医療及び保健福祉サービスが提供されているかどうか実態を把握するための調査などが必要である。
本意見具申は、先に掲げた「人権」の意義に関するコンセンサスを前提とし、まず、現在に至る精神科医療の歩みと現状を踏まえ、人権擁護の視点で設定した審議課題、[1]精神医療審査会、[2]精神病院に対する指導監督、[3]第三者機関としての人権擁護機関、[4]情報公開・実態調査、[5]医療従事職員の意識啓発、について現状と課題を分析し、次に、それぞれについて課題を解決するための提言及び[6]医療の質の改善、について述べるという構成になっている。
なお、この意見具申書が、各精神病院・各精神科病棟の入院患者の皆さんにとって、いつでも自由に手に取って読むことができるような精神科医療上の環境が実現することを、審議会として切に希望する。