その人が主人公になれる時間
大倉大阪精神医療人権センター(以下、人権センター)ができた当初から井上さんは人権センターの活動に関わって来られたと聞きました。人権センターと関わり始めた当時と現在行っておられる活動について教えてください。
志も高き先達に導かれ1985年、大阪精神医療人権センターの結成総会に参加しました。その後初期の電話相談(入院されている方から人権センターにかかってくる電話での相談)に参加しました。何もない事務所に電話機とノートがポツンとあるようなところでした。
大和川病院事件がありその結果精神医療オンブズマン活動が制度化されました。(現在は療養環境サポーター制度)私が面会に参加したのは、そのオンブズマンの活動からです。ボランティア4~5人くらいで病院を訪問し、1時間くらいでいろんな患者さんの話を聞いて、そのあと病院管理者と直接面談しました。今は電話相談と個別訪問活動の両方を続けていて、あとは総会などのイベントの機材係みたいなことになってます。(笑)
短時間で複数の方の話を聞くオンブズマンと違い、個別訪問はじっくり腰をすえて、ひとりの方と落ち着いて話せるのが良いところですね。
面会の時は助言などはなるべく置いておいて、まずはできるだけその方の思いを、存分に喋ってもらうようにしています。面会を求める方たちは、家族とか地域とか、病院からも排除されてきた経験を持っておられるかもしれない。長期在院であるならこれまでにいろんな思いを、胸のうちにしまっておられるかもしれません。そういう方たちにとって、思いのたけを存分に、自由にに喋れる場として面会の時間は患者さんが主人公の時間と思って話を聞いています。
ひとりで抱えないから続けられる
大倉これだけ長く活動を続けて来られたモチベーションは何ですか?長く続ける秘訣があったらそれも教えてほしいです。
ずっときちんと活動を続けてきたかどうかは怪しいのですが(笑)当初からの動機なんですけど、差別というものに対して、自分の気持ちが抗うんですよね。差別というものが、どれだけ人を傷つけてディスパワメントするか。命を奪うことさえある。民族問題や障害者問題、BLMにつながる黒人の問題だってそう。根拠なく、存在するだけで差別、排除される。それが何百年と、ずっと前からありますよね。
差別というものが、自分にとってどういうものなのか考えたときにね、私は、誰かを排除してよしとする社会では自分が差別される側でなくてものびのび暮らせないな、と。「自分は攻撃されませんように」「誰かから攻撃されないようにしなくっちゃ」という不安びくびくの社会。
差別されることと非対称ではありますが、たとえば、結婚したい相手の出自を調べてみたり、自分の「オトコの能力」を心配してみたり、差別する側も相当に苦しくてみっともなくてのびのびと暮らすことができてないと思うんです。だから皆が差別されることからも差別することからも解放されてのびのびと暮らしたい。おびえてびくびくしながら生きるのはまっぴらですから、そうじゃない社会を作っていきたいんです。
そう思いつつもあまり疲れないような参加の仕方をしてきたのが、長く続けてこれた秘訣かもしれません。(笑)
人権センターには能力や迫力のあるすごい方がたくさんいて、安定して運動を続けてきてくれたからこそ、多くを学ばせてもらってそれが新たなモチベーションになり自信になり、安心してまあ末席ながらも続けることができました。
面会ボランティアで聞く話には刺激の強い話や重い話もあって、一方で自分がその方に対してできることは限られているから、終わったらできるだけ早く他のスタッフや事務局と共有するようにしています。毎回重い宿題を背負って帰ってくるけど、持ち帰った荷物はさっさと降ろすというか、すかさず他の人にシェアするというか。(笑)
病院勤務でも経験があるけど、患者さんの存在を1人で受け止めるのは無理なんです。そのためにチームがいるわけで、自分ひとりで抱え込まない工夫は必要ですね。
差別って気持ちの問題? 在日コリアンの方との関わりから”反差別”に。
大倉そもそも精神科の問題に井上さんが関わるようになったきっかけって何ですか?
大学では医療福祉とは距離のある学科でしたが、まず在日コリアンの民族差別問題、日韓日朝の問題に自分的に「直面」しました。さらに当時は国際障害者年(1981年)であったり24時間テレビが始まったりしていた時期で、障害者の問題にも出会いました。同級生に身体障害者がいて、色々教えてくれたりもありました。そういった問題に取り組んでいる先輩たちに、精神科病院にボランティアに来ないかと誘われたのがきっけけです。
卒業後ボランティアの縁で誘われて精神科病院で看護助手になって、当時は精神保健福祉士の資格もなかったから、仕事としてどっぷり精神障害者にかかわるには看護が一番ええかと思って、看護師になりました。
学ぶ中で、差別というのが、心の問題どころではないと思うようになりました。法律や社会制度として排除しているんです。在日外国人に対しては選挙権どころか、健康保険さえ入れない時代が長かった(1986年に国民健康保険から国籍条項が撤廃された。)。年金にも加入できなかった。差別っていうのは、自分に差別する気持ちがあるかどうかとか、差別反対は偽善とか、そんな「心の問題」ではなくて、制度的に、法律で排除するというえげつないものだったんです。社会保障から排除されるのは、命の問題なんです。
乱立した精神科病院への強制入院、長期入院はもちろん法と制度に基づいています。予測不可能なのに、精神障害者の再犯の危険性ということで医療観察法は成立しました。ハンセン病の隔離収容にあっては驚くほどの官僚的緻密さのようなやり方でもって隔離収容、人権侵害が続きました。
さらに「心の問題」などまるでナマぬるく思えるほどの虐待や搾取もあります。障害者とわかって暴力をふるったり性的虐待をしたり金銭的搾取するヤカラがいます。2016年の津久井やまゆり園事件は史上最悪のヘイトクライム事件でした。その加害者を擁護する声があります。「偽善」とか「同情」とかで悩んでるいとまはないんです。迷わず反差別にまい進するしかないでしょう。
症状が悪くてもなんとかなる
大倉井上さんは精神科病院でお勤めになったあと、今はクリニックで看護師をされていますが、クリニックと病院ではどんな違いがありますか?
私の勤めるクリニックに通っている患者さんは、統合失調症の方が割合多くて精神科病院と似ていると思います。地域にはさまざまな困りごと、いろんな障害を抱えて暮らしている人がおられますが 障害を抱えながらも社会生活をしてはるから、病院と比較して社会性は高いと思われます。たとえば身だしなみとか、交通機関を利用することとか、支援を受けたりもして何とかうまいことやってはります。長期在院していると、どうしてもそういった社会性は失われてしまいがちです。
症状が悪い人でも地域で暮らしてるんですよ。もし入院となったら、長期在院させられるんじゃないかと思うくらい症状が悪い人もいる。
逆に言えば、そういう人でも地域で暮らせてるんです。医療や福祉は大変かもしれないけどそれが仕事なので、やっていけてるのを実際に見ているから、入院中の人に対しても、なんとかなるんちゃう?って思うんです。「なんとかなると思うので、諦めずに、どこか行きたいとか、好きなもの食べたいとか思ったらええんちゃますか?」って思います。
自分の望む生活を、楽しいのびのびとした暮らしを入院中の方にも追及してほしいと思うし、面会でそのように伝えます。
リーダーではない、その他大勢のひとりとして
大倉そういう思いを持ちながら、細く長く活動を続けて来られたということですね。若い頃から、そういった正義感はあったんですか?
正義感と少し違うかも、ですが、たとえばある民族の歴史を見るとき、強大な権力者がいて支配されて侵略されてという歴史観ではなく、その地の主体者である民族の民衆はそのときどう生きたか、行動したか闘ったかという「主体的歴史観」が基本的で重要な視点ということを若い時学びました。差別抑圧困難のあるところ必ず人々の闘いがあります。強大な権力者の歴史だけを見ていると自分の無力ばかり感じてしまいます。視点を変えれば差別抑圧困難不正と闘った膨大な歴史があり勝ち取ってきたこともとても多い。
そのおおきなポイントの一つは「人権」思想だと思っています。それが私をエンパワメントしてくれるし、その流れの中に自分もありたい。人々の苦闘の歴史を学べば学ぶほど、正義というかめざす方向は見えてくるし追求しなあかんなって思うようになりましたね。「闘い」なんてつらくて苦しそうかもしれませんが、そもそものびのび楽しく暮らしたいことが目標ですし、その中には温かさや助け合いや楽しみや文化が生まれます。ジャズのルーツはアメリカの黒人たちなんですから。
人々の歴史こそ歴史なんですよ。偉い人はあんまりたくさんいらないんです。その他大勢が大事なんです。だから自分ががんばらないと、とか、立派になってリードしないと、とか思わなくていいんです。運動もシェアです。
大倉何者かにならなくていい。
そうです。本を書く人もいれば読者も必要です。たくさんの読者のうちの1人がいいなと思っています。
原稿 森本康平 精神科アドボケイト
※本インタビューはSOMPO福祉財団のNPO基盤強化助成で実施しました。