お知らせ

「精神病院はかわったか?」ドキュメント 大和川病院事件への取り組み

2020.05.09 UP

第4章 ドキュメント 大和川病院事件への取り組み

山本 深雪

1 行き続けた面会

 

ことのはじまり

1993.2 朝日新聞八尾支局より事件の一報が入る。
遺族の方のお話をお聞きしたい旨伝え、翌日、会うことになった。遺族「死なすために入院させたんじゃない。治すために、入院治療を求めた。死因に納得がいかない。なぜ、こんな死に方になったのか、はっきりさせたい。」
1993.3 大精連(ぼちぼちくらぶ)の東大阪在住の友人より連絡が入る。「友達が大和川病院に入院している。その妹さん(別の病気で入院中)から、兄の様子をみてきてほしいと頼まれた。一緒に面会に行って。」
1993.3 近鉄国分駅で待ち合わせた。病院に向かう途中、「僕らも面会して無事帰れるかどうかわからへんなぁ。」「午後4時すぎには病院敷地から外に出るから、その時電話がなかったら、病院とのトラブルかイソミタール注射を打たれて入院になった可能性があると判断して動いて欲しい、と信頼できる知人に頼んである。」などと話しながら、背中に緊張感でサブイボが出ているのを感じながら、病院の門をくぐる。鉄の門扉は、1人通れるだけの幅が開いており、守衛が立っていた。受付には「面会は1人15分です」との掲示があった。
窓口で面会申し込みを出し、待つこと30分。80歳代の看護婦が呼びに来た。階段をぐんぐんと昇り、A棟3階の面会室まで連れて行かれた。その看護婦は面会に同席しようとしたので「私達だけで大丈夫ですので」と伝えると、面会室に外から鍵をして病棟に戻っていった。
面会をした本人は、「ここで、いろいろと患者が死んでいる。僕もいつやられるかと思うと不安。転院先を探して。」
「わかった。探す。何かあったら、ここに電話して。」
「公衆電話は使えない。」
「おかしい。入院患者専用の公衆電話があるはず。」
「詰所の中に緑の電話機ある。力のある患者しか入れない。僕は使ったことない。」
「それは何とかするよう大阪府に話にいく。入院中の患者の使える権利が、このパンフに書いてあるから、病棟の人に渡して。」
「面会室を出た後、詰所で差し入れをチェックされる。ばれると大変。」
「パンツの中に入れるしかない。小さい名刺も何かの時に。」と手渡す。
看護婦は「15分たちました」と呼びに来た。病棟への扉を開けてくれたので、病室まで送って行った。病棟内は、薄暗かった。ホールで将棋をしている姿がおぼろげに影でわかる。部屋は6人部屋だが、天井の蛍光灯の管がさしこまれていない部分が5ヶ所あった。外へ出ようとしたら、病棟の鍵は閉まっていた。詰所に行ったが、中から鍵を閉め、扉をノックしても振り向いてくれない。困った。何度かたたいたが反応がない。
それを見ていた患者が、詰所の扉を足で蹴ってくれた。ようやく、看護婦は私達の存在に気がつき、扉の鍵を5ヶ所ガチャガチャと開けて元の受付に戻ることができた。とても長く感じた面会だ。それにしても病棟にいる男性患者100人にあの高齢の看護婦が日勤時間帯で1名か、と非常に驚いた。この日、面会した患者の勇気がなければ、その後、人権センターに電話が入ることはなかっただろう。
1993.3.9 大阪精神医療人権センターとして、正式な病院とのご挨拶の機会をもった。
弁護士と事務局1名で、病院側は、川井院長が対応。患者専用公衆電話番号の各病棟ごとの番号一覧を書いて渡してくれた。「ここは、患者さんが、いつでも公衆電話を使えるようにしています」とのお話だった。
その日以降、入院患者さんから、人権センターに電話が入る。「10円玉1枚なので、すぐ切れる。A棟3階○○番○○です。面会に(ガチャンと切れる)。」すぐにこちらから病棟公衆電話にかけ直し、「○○さんお願いします」と、話の続きをすることができるようになった。多くの人は、「家族に電話をかけて、この病院のことを伝えてほしい。○病院に転院できるよう説得してほしい。」との内容だった。

「面会をお断りします。」

1993.4.19 午後9時すぎ、病院職員より電話が入る。「今日、本部から、『明日以降、人権センターからの電話や面会は一切受けるな』と指示があった。私たちの給与が減らされるので、病院にきても面会は受け付けられませんから、そのつもりで。」びっくりした。すぐ精神保健法詳解の該当頁を探した。
1993.4.20  朝10時、面会依頼者に会うために病院に行った里見弁護士から、「病院側は、午前中は面会時間外だ、保護義務者の承諾を得ていなければ面会させない(弁護士バッヂをつけているのに)、あんたが弁護士だという証明はどこにあるのか、などと言って、面会させてくれない、このままでは、本日(4月20日)午前10時に面会に行くと約束したことが守れなくなるので、病院側に対し、

○○○○様
本日(4月20日)午前10時に面会に来ましたが、   午前中は面会時間ではないという理由で病院は当職を貴殿と面会させてくれません。
やむを得ませんので、本日(4月20日)午後1時に再度面会に来ますので、御了承下さい。
1993年4月20日
弁護士 里見和夫
以上のこと了解しました。
本日午後1時からの面会を待っています。
1993年  月  日
氏 名        
と書いたメモを渡し、このメモに患者さんの署名をもらってきて欲しいと要請したところ、病院側は渋々メモに患者の署名をもらってきた。面会は、午後まで待つしかない。」との連絡が入った。
ところが、里見弁護士が午後1時頃再び病院に行くと、病院側は、1枚のメモ書きのある紙切れを見せて、再び里見弁護士の面会を拒否したとのことで、その紙切れには、

       恐れ入りますが、退院の件は院長先生にお任せします。弁護士の先生は結こうです。すいませんが帰って下さい
○○○○

     と書かれていたとのことだった。
これに対し、里見弁護士は、「メモ書きが患者本人の真意に基づくものであるかどうかを確かめるため、患者本人に会って、本人の口から直接聞きたい」と病院側に申し入れたが、応じないので、この問題につき、人権センターから大阪府および厚生省担当課に電話して、里見弁護士の要求が正当なものであることの確認を求めるとともに、大和川病院に対し、そのように指導するよう依頼して欲しいと連絡してきた。
大阪府、厚生省のいずれも、里見弁護士の患者本人に会って直接真意を確かめたいという要求に病院側は応じるべきであるとし、大阪府はそのように病院側を指導したが、病院側は応じなかった。
メモ書きを書かされた患者さんの病棟に電話をした。
本人は「会いたいんですが、院長先生に詰所に呼ばれました。便箋に、会いたくないと書くよう言われたので書きました。僕にはどうして良いのかわかりません。」と話した。
大阪府、厚生省担当課に対し、今回の事態は法違反であり、すぐに指導されたい、と申し入れた。

なんとしても面会を
同じような事が繰り返されてはならないと思った。4月24日、「大和川病院事件をうやむやにしない集い」を催した。会場は、真実を知りたい、と感じた市民が大勢集まり、座りきれずに立つ人も多くいた。連休にさしかかる直前だったが、何とか面会ができるようにするため、国会議員、マスコミ、弁護士、同行して面会してくれる家族など多くの方々に協力を依頼した。また、転院先を確保すべく準備をした。
《国会議員》
当時の衆議院・参議院の厚生委員会の議員に電話で依頼をした。「連休に入り予定が立て込んでいて動けない。」「まずは、事実をこの目で確かめないと、すぐには了解しにくい話だ。」「議員は、地元事務所に戻っている。そちらにかけて。」等さまざまな対応があったが、ようやく「5月8日なら、現地の病院にいきます。」との返事を兵庫県の土肥隆一議員からいただいた時は、ほっとした。この日を逃してはならない、と入院患者の家族の依頼で人権センターに電話をいただいていた三石久江議員にすぐに同行依頼をした。
《マスコミ》
マスコミには、精神保健法が保障するいちばん基本的な権利である通信・面会の自由(法第36条)が侵されようとしている事実をメディアとして取材してほしいと連絡をした。
《弁護士》
面会申し入れを伝えてきていた5人の患者さんがいた。それぞれの方についての情報を整理し、各人ごとの支援にあたる人(例えば保健所のPSW、本人が転院を希望している病院のPSW、本人が信頼している家族など)を決め、弁護士に協力をお願いした。
《家族》
家族には、本人からの転院希望などを伝え、家族としての思いもお聞きし、その上で、「今後は保健所の○○さんに関わっていただいてはどうか、あるいは○○病院のケースワーカーに相談してはどうか」と頼れる人を紹介し、家族の納得をとりつけていった。そして「それなら転院・退院させます」という家族も現れた。
《その他の準備》
記録することが必要だと思った。ここまで無法ぶりをおこなう病院であれば、当日どんなやりとりがなされるか予測できない。その為、何かの折りに証拠となる確かな記録をしておこうと、ビデオとレコーダーを用意した。
また、転院先として、本人から希望の出ている病院には、連絡をとって事情を伝えた。

5月8日の面会妨害

1993(平成5)年5月8日の当日、面会申し入れ書を出していた患者5人のうち1人の家族が、面会に来ていた。この家族は、その日中に退院手続きを済ませ、別の病院(アルコール治療病棟)への入院手続きを行う予定で段取りを組んでいた。その家族の方に、廊下で肩をたたかれた。「大変なことになっています。うちの人、詰所に呼ばれて、院長先生から『入院治療をお願いします。弁護士面会は依頼しません。』というメモ書きに署名押印をさせられたと言っています。今日の退院はかなわないのでしょうか。」「そんなことは許されるはずがありません。何とかしますから、ホールで待っていて下さい。転院先の病院への入院手続きは5時までにしてほしいと聞いています。4時までには退院手続きをしないといけません。少し待っていて下さい。」家族にそう説明をしながら、「病院側は、許されない一線を超えた。」と、私の頭の中でカチッとスイッチが入った。
院長室に戻り、春日医師に、「あなたは、いま、患者さんに、『面会しません』というメモを書かせたでしょう。聞きましたよ」と怒って言った。 それを見ていた看護婦は、その後、廊下にいる私に「名刺をください。院長に対してあんなふうに言える人がいるなんて……ぜひ、話したいことがあります。」と話かけてこられた。私は、名刺を手渡し「夜9時までは事務所にいます。」と伝えた。その後、数人の看護婦さんや警備の職員の人が、トイレに入ろうとする時、周りに他の人がいないのをみて、「名刺をください」と声をかけてきた。
後日の面会活動の折り、厨房で朝6時から勤務していた入院患者からは、「また、来てくれると思って用意していました。」と病棟の中から訴えたいことが綴られた便箋を受け取った。

病院職員の反応

その夜から、看護婦さんたちから、事務所に連続して電話がかかってくるようになった。
職員「あの病院で、守られていないのは、患者さんの人権だけではありません。私達の人権も守られていません。そのお話も聞いていただけますか。」
私 「はい。直接、お会いしてゆっくりとお聞きしたいと思います。病院という職場の労働条件などに詳しい者もおりますので。」
職員「いいえ、普通の感覚では理解してもらえません。市役所や労働相談や労働基準局にいろんな人がずっと相談に行っています。誰も本当の事だと信じてもらえなかったと聞いています。8日の春日先生の行為を知ってああやって抗議することができたあなた方なら聞いてもらえるかもしれないと思ったんです。実態を聞いて下さい。」
電話の向こうからため息が聞こえた。本心を言えば、私は入院患者の処遇について知りたかった。聞きたいのは、日々どんな治療行為をしているのか、病棟で何がおこなわれているのかについてだった。ただ、「とりあえず、聞かねば……」そう思った。
そして私は電話をかけてきた病院職員に、「病院外部の人にもわかってもらえるよう、事実はこうだ、という証拠物をだして下さい。メモでも何に書いてあっても、そのときの記録であれば」と弁護士のアドバイスを伝えた。そして病院職員から、貸借契約書の写し、実際の勤務日数、家計簿に書いた日記、病棟での覚書などの同封された手紙が届くようになった。
初期は、スタッフの人手にゆとりがなければ適切な医療の提供は無理なのだという考えではなく、スタッフも入院患者に対する人権侵害に手を貸しているのではないかと感じていた。でも、訴えてくる安田系3病院職員の話をきくにつれ、「本当の責任者は、理事長の筈だ。理事長を追及していくためには、その経営方針の下で苦しんでいる職員の実情をきちんと聞くこと。それが、患者のおかれている苦しみを解決していく道につながる。」と思うようになった。最初は悩んだが、訪問し話を聞き取りしていく中でそう思うようになった。

継続した面会活動

手元に当時の112枚の「面会申入書」が残っている。1993(平成5)年5月から1996(平成8)年12月までの4年間分の綴りである。93年3月から4月の間には、26人の面会依頼に対し、弁護士・人権センターそれぞれ2人ずつの4人が1組になり、毎週決められた曜日の午後1時に、粘り強く行き続けた。1994(平成6)年の途中からは、弁護士以外の者は、玄関に入れてもらえず、門外の路上で待った。雪の日も、風が吹く日も、決めた面会日には行き続けた。病室の患者さんたちから、「がんばれよ」と声をかけられたり、手紙を投げられたりした。面会に行った2人を病院職員が扉から押し出そうとするのを、扉に片足を挟みこんで閉めさせずに交渉し、20代の患者を無事に退院にこぎつけた時もあった。
1回の面会活動は、一日仕事だった。ある日の面会を紹介する。

【1994年2月2日】
午後2時、5人の患者の面会の申入書を持参し、弁護士2名とアシスタント2名で、面会に行った。病院側は患者さんの書いた「人権センター、弁護士と会いません」という旨のメモを提示し、患者と私たちが面会をしようとするのを拒んだ。大阪府の担当課も現地に来て病院側に指導するというような顛末の後、午後6時前から弁護士と患者4名との面会が行われる事になった。面会を申し入れたのが午後2時、面会開始まで4時間かかった。
院長は、「病院側の実質権限は、事務長がもっている」「(メモは)会いたくないから、書いたんでしょう」との責任逃れ発言に終始した。
事務長は「ここが精神病院だと言う事がわかっているのか」と幾度も繰り返し、カメラを準備しながら私たちを怒らせようと威嚇する態度を続けた。

2:10 院長、事務室より出ていく。(この間院長は病棟に行き、患者さんに面会お断りのメモ書きを書かせていた。)
2:41 院長、事務室に戻る。
2:42 大阪府へ電話――「未だ面会をさせな
い。面会時間は4時までとなっている」旨伝え、事態を打開する指導を要請した。
2:50 事務長、ポケットに録音機の様なものを入れながら、位田弁護士に「お待ち下さいと言われたら待ったらええ。何でアンタらにいちいち理由を説明せんとあかん!弁護士をカサに来てるんか。」「何で早うせんとならんのや。」「この人とこの人はうちにはおらん。」「あんたらも常識をわきまえたらどうか。」等挑発的発言。
弁護士ら、「面会申し入れをして50分待って、早くして下さい言うのがどこに問題があるんですか。」と質問していく。
2:53 「Aさんと面会してください」と病院側が弁護士にその方の面会申入書を示す。
Aさん…1993年11月27日に人権センターと弁護士が面会をした。その翌日、病院側はAさんの兄3人を呼び、「人権センターへの申し入れを取り消す」という内容のメモを書かされ、そのメモは人権センターに送られてきた。翌年(1994年)1月24日、Aさんから人権センターにハガキがきた。「面会に来て下さい。相談したい。胃が痛い。早く内科の治療の出来る病院に移りたい。退院請求の用紙を3日前に出した。本日は弁護士と会う前に、院長より『また、会うのか。』と言われた。弁護士に会うまで7分ほど、面会室まで待たされていた。カード式電話になったが、申し込んでも、カードはもらえない。かろうじてハガキを買うことのできる50円がもらえるだけ。医師は『電話するな』と言う。早く、事態が変わるようにして欲しい。」といった内容だった。
3:05 山口事務長は、「写真をとらせてくれ。」「何でこの病院を好きになれへんのや。」「検査入院するか。」等ドスの効いた声で面会に行っている当センターに嫌がらせと挑発の繰り返しを行ってきた。
3:30 「会いません」のメモ書きを病院側が弁護士に提示。23人の白衣の集団が私たちを取り囲む。
3:35 大阪府へ事態を電話連絡し、改善を申し入れる。28人の白衣の集団。
3:44 厚生省へ改善指導を要請。32人の白衣の集団と事務員の包囲。
4:23 電話連絡の途中で、「開放命令が出た。」
と白衣の集団が話しながらいなくなる。
5:00 大阪府より3人到着。
ずっと事務長が、「ここは精神病院。管理者は私。」等ねばったらしいが、府は院長の判断を求め続け、面会再開となった。
6:00 第2次面会の1人目終了。
6:05 第2次面会の2人目の面会が開始された頃宮島弁護士が府の職員を呼んで面会室に入る。本人の意思でなく、院長の指示で書いた旨の陳述。
6:42 3人目面会「弁護士を頼むと金6万円か
かると看護人さんから言われたから、考えときます。」――事実と違う。
6:45 4人目面会「入院形態は知らない。約4
年入院。家族は受け入れていいと言っている。」病棟の階段で落ち、右手が曲がらない為、字が書けない。退院請求の手続き依頼。――次の日電話で「弁護士断り」の連絡を職員が横にいる状態でかけてきた。この繰り返しがあってはならないと思う。
今回の事態で、「夕飯が30分遅くなり、夜の腹持ちがよくなった」と患者がロビーで話しかけてくる。
6時40分頃、厨房から最後に患者さんが、白衣と白い長靴をはいて出てくる。こんな時間まで、使役が行われているのだ。
とにかく、当たり前の面会が入院中の人の希望通りできる日が1日も早く来ることが大事だと痛感した。

 4年間一貫して継続した面会活動が、患者・病院職員・家族たちがそれぞれの立場から、「治療の場がこれでいいのか」という思いを、病院の外に伝える契機となった。
元入院患者が、保護室で暴行を受けた際の返り血がついた服を持って事務所に話をしにこられた。暴行に使われた消火器の粉で白く汚れた靴を袋にいれ事務所に相談に来られた、亡くなった病院職員の遺族の方もいた。

2 様々な立場の人が動き出した

「診察がないまま保護室に入れられていた」

私たちがお話をきき、手紙を渡された患者さんたちは、他の病院にも入院しておられるような統合失調症の方や高齢の方、知的障害のため地域で暮らすときには日々の小さなトラブルがあるような方が多かった。診療内容があってこそ与えられる診療報酬で運営される病院で、「診察がないまま、保護室に入れられた」「薬はみんな画一処方で同じ量がずっと続く」「風呂に入れず、首の周りなど垢でコテコテ」「退院のめどなど、誰も話してくれない」「次つぎと隣のベッドの患者が死んでいく」というような事態が許されるはずがない。そのことについて転院先で書いて渡してくれた陳述書は、こうした実情を生々しく伝え、「きちんとした医療を受けたい」との気持ちが書きつづられていた。
朝6時から朝食の準備をし、配膳をし、夜6時過ぎまで厨房で働いていた患者さんは、病棟での暮らし、理事長が朝礼でする指示の内容、費用の削り方(冷暖房はホールのみ等)など、詳細に便箋に書いて下さった。目を通して絶句した。この陳述書を病室で書いている姿を想像すると、何とかしなければ、との思いが腹の底からわいてきた。
これまで、「大和川病院は、他の病院で言うことを聞かない患者たち(人格障害や、薬物依存・アルコール依存の人)があつまってきているのだから、しかたない。必要悪だ。」と精神保健の業界人の口から聞いてきた。この「必要悪」という評価は間違っていると、この病院に関わるほど、確信していった。
生活保護の患者を受け入れない病院、引き取る家族のいない患者を拒否する病院、救急車での入院を嫌がる病院があり、背景にあるスタッフ不足や家族や本人が入院を求めてもどこに相談したら良いのかわからない仕組み……大和川病院事件の背景にはこうした様々な問題も同時に横たわっているように感じられた。

ある「ボス患者」の葛藤

亡くなった患者の遺族より「友人でヘルパーをしている人から、『患者暴行事件の加害者が、話をしたがっている』と連絡を受けた。あなた方で聞いてほしい。」との電話があった。
その患者は、「自分は、なぐったり、縛ったりする役。好きでやっていたのではない。嫌になって、3階の窓から飛び下り脱走しようとした。その時、両足複雑骨折で、動けない身体になった。あと、どれだけ生きられるか分からん。ビデオで言葉と身体を撮って欲しい。」と転院先の病院で話をした。その患者は1ヶ月後に亡くなった。
病院内で「ボス患者」になるために彫った入れ墨を録画するよう言われた。自分がしたくて入れ墨をしたのではなく、自分から望んで「ボス患者」になったわけではないことが分かった。そこに彼の悔しさを感じ、ビデオに撮った。「ボス患者」何人でグループがつくられていたか、「ボス患者」として保護室などでどんな仕事が与えられていたか、報酬がたこ焼きなどだったことが語られた。心の中の葛藤が印象に残った。この映像は、後日、裁判で証拠採用された。

「ゴロンボ入院と呼んでいた」…事務員の声

入院にかかわっている事務員から、「うちの病院が、どんなふうに患者を集めているのか。『ゴロンボ入院』、自分たちはそうよんでいます。警察の裏口で受け取った患者さんを、僕らが縄でグルグル巻きにして、車の後ろに、ゴロッとほうり込むんです。どの職員が、どの管轄エリアから、何人集めてきたか、それが給料に影響するんです。『水揚げ点数計算』なんです、ここは。」
PSWとして雇用された職員から、「私は、患者さんの退院に向けた援助をしようと思って入職したんです。それなのに、やらされる仕事は、まったく別。私にはできませんでした。」

マスコミの役割

過去、事件報道のたびに入院歴や通院歴報道がなされることについて、「マスコミ倫理懇談会」に要望書を提出し、「関西マスコミ倫理懇話会」の会合での研修などを積み重ねてきていた。その中で、マスコミの中にも、友人や家族に障害者を抱え、記者自身が体調悪化し、職場環境のあり方について悩んできた人がいること、1日1件のペースで精神障害を疑われた人の刑事事件が警察から発表され、その流し方について現場で議論がなされてきたことなどを知った。これらの問題について、各社ごとに懇談や研修を重ねる中で、顔の見える関係もでき、信頼できそうな方の存在などがみえてくるようになってきた。
マスコミの出し抜き競争に明け暮れ、騒ぐための道具に精神障害者を使うタイプがいる一方で、まじめに報道現場のあり方について悩んでいる人たちもいることを知った。その中の数人に、大和川病院のI事件について取材をお願いした。そうしたところ、関西テレビ報道部の若手ディレクターらから、人権センターや大精連に携わっている人間を3ヶ月間かけて取材したい、と申し入れがあった。それが、4月24日だった。わたしたちは世間が、大和川病院の事件をしっかりと知るには、それも必要だと考え、3ヶ月間、自宅や事務所や催しをカメラでとることを承諾した。よく議論をし、話し込んだ。その結果、5月13日提訴時の報道・9月23日の60分のドキュメント番組となった。その後、腰をすえて精神障害者と世間(警察・病院・地域の住居・地域の不動産屋など)の関係を問題にしていくような番組も生まれた。

弁護士の協力

大和川病院は、代理人となろうとする者(法律では弁護士)の面会すら妨害してきた。そのため通常の面会にかかる労力以外にも、時間の拘束が長かった。多くの弁護士事務所が集まる大阪市北区から大和川病院までは往復2時間弱かかった。面会に行き、病院とのやりとりに数時間かけても面会が空振りに終わる日もあった。これは、非常に大変だった。しかも、ずっと続く面会希望、辞めたいのに免許証を返してもらえないとの看護婦の訴え、治療を期待した場での不祥事件を訴える遺族の方々の相談が続いていた。若手の弁護士の協力を得られるようお願いにいった。仲間の弁護士が、不当にも病院に訴えられると、忍耐強く面会活動に協力してくれる弁護士が増えていった。約15名の弁護士の協力により、1993(平成5)年5月から1996(平成8)年までに延べ112名の患者さんとの面会が行われた。そして退院にこぎつけた患者さんも何十人もいた。
1997(平成9)年、マスコミでとりあげられて以降、この問題についての相談窓口をより多くの市民に伝える必要があった。そのため、4月19日、事務所に電話を5台設置し、「安田系3病院被害者相談」を開催した。この相談の開催については、新聞5社とテレビ放送2社などが広く報じた。当日は、61件の電話がかかってきた。この日の相談から「安田系3病院被害者弁護団」が結成され協力体制が拡がった。

 その他面会妨害のあった1993(平成5)5月8日のように、国会議員が面会活動に参加したこともあった。1993(平成5)年6月2日の衆議院厚生委員会では、土肥隆一議員が5月8日に体験した面会妨害の詳細や大和川病院で起こっている事態を報告し、通信・面会の自由、監査のあり方等について質問した。6月10日の参議院厚生委員会では今井澄議員によって大和川病院で行われている面会の制限や死亡事件について厚生省に質問した。このような、国会議員との協力は後の精神保健福祉法改正の際に人権センター事務局長として参考人意見を述べることになったことにもつながる。

3 廃院へと導いたもの

行政のにぶい動き

1993(平成5)年2月の報道をうけ、3月3日、人権センターは大阪府に対して、大和川病院の患者死亡事件の背景にある医師不足、看護職員の不足、患者の使役などについてどう対応するのかという質問状を提出した。4月には大阪府精神保健福祉課と交渉を持ち、8月には 厚生省に対して3病院同時立ち入り検査を求める要望書を提出するなどの交渉をした。そして9月20日に厚生省、大阪府、大阪市による「3病院統一医療監視」が実施された。しかしこの医療監視は旧来と同様に安田病院には午前10時、大和川病院には午後1時と時間をずらしての実施だった。この日の状況については直ちに「病院職員はその時間差を活用して各病院を移動し、それぞれの病院で人員配置が満たされているように見せかけた」との内部告発があった。9月24日、こうした医療監視のありかたについて、大阪府の医療法・精神保健法・生活保護法の各担当部局に抗議をした。その後も交渉を続けたが、実際に3病院同時のごまかしを許さない医療監視が行われたのは1993(平成5)年2月に患者が亡くなるという事件が起こってから実に4年後の1997(平成9年)年3月のことだった。

動き出したきっかけ

 
1994(平成6)年4月大和川病院の保安職員が病院内で勤務中に患者の暴行により死亡した。病院内で自分と同じ立場である病院職員が亡くなったことは同僚の職員達に衝撃を与えた。自分自身も同じ目にあうかもしれないとの危機感から病院を辞める職員、人権センターへ連絡をとる職員が続出、1997(平成9)年1月には亡くなった保安職員の遺族から人権センターに連絡が入った。
そして1997(平成9)年1月から2月にかけて、死亡した職員の給与が未払いであること、いろいろな名目の罰金制度があること、監査の際には実際には働いていない職員をいるようにみせかけていたことなどにつき、死亡した職員の遺族や病院職員と共に、労働基準監督署に訴えにいった。その結果、1997(平成9)年3月、労働基準監督署の一斉立ち入り調査が、3病院に入るに至った。また、大阪地方検察庁も、職員や遺族らに対する事情聴取をはじめ、マスコミ各紙は大きく報道した。
大阪府の複数の関係部局が動いたことが報道されると、世間が安田系3病院について大きく関心を寄せることになった。1997(平成9)年3月19日、人権センターが要望し続けていた3病院統一医療監視が厚生省、大阪府、大阪市の生活保護法、健康保険法、精神保健福祉法、医療法の各法にかかわる合同調査としてやっと実施された。
その後、事態は急転し、4月8日には医療法人北錦会大和川病院の患者20人が退院を申請し、大阪府精神医療審査会が立ち入り調査を開始、そして流動した状況の結果、その年の8月5日には3病院の入院患者全員の転院退院が完了したのである。

ここまでの道を切り開いた大きな要因

大阪府の精神保健福祉関係者の中で「必要悪」とまでささやかれていた病院を廃院に追い込んだこの取り組みを振り返ると、様々な立場の人が協力して成し遂げたということが分かる。厚生省や大阪府との交渉では人権センターや協力弁護士だけでなく、病院に入院していた患者、病院職員が一体となって行動した。
当初、職員たちの腰は重かった。安田院長は、日々の朝礼で、安田記念医学財団の寄付金の行き先として、国会議員や厚生省職員(小林氏)の名前をよく口にしていた。お金のやり取りの領収書も壁にずらっと掲示されていた。このような状況を知っていた職員たちは、自分たちが国や大阪府に対して何を言っても相手にはしてもらえないとあきらめていた。
私は「今まで口にしてきた病院に対する批判や不服は、正々堂々と行政に対して発言していかねば。」と説得した。それでもなかなか踏み切れない気持ちを振り切って告発に向けて後押ししたのは、入院体験のある患者さんたちの陳述書だった。元入院患者達がこの活動に参加しつつある姿が、職員たちの気持ちを大きく動かした。

もとをたどれば1993(平成5)年3月に最初に面会をした患者さんが人権センターの連絡先を下着に忍ばせて病棟に持ち帰り、他の患者さんたちに伝えてくれたことが突破口になった。これがなければ大和川病院の病棟から相次いだ救援を求める連絡はこなかっただろう。また病棟の患者さんが連絡先を知ったとしても、詰所内に設置された公衆電話から人権センターに電話をしなければ事実が外に伝わることはなかっただろう。また、人権センターが執拗に面会に行き続けなければ病院職員たちと協力しあうこともできなかったと思われる。
そして1997(平成5)年7月、最後の詰めで大和川病院だけを残そうとする行政に対し、障害者団体・解放同盟大阪府連と共に、「差別に裏打ちされた存続は認められない」と毅然とした態度表明をもとめていったことが、8月5日の3病院患者全員転退院へと向かう力となった。

 

◆資料

神尾カズヱさん 陳述書
1996(平成8)年8月15日 

1.はじめに
私は平成元年5月から、円生病院で看護補助者として働き始めました。平成3年ころから、事務員が少なくなったので、私たち看護補助者や看護婦がレセプト書きなど医療事務の仕事もさせられるようになりました。この頃より、円生病院から私も含め10名くらいの人が指名されて、大和川病院に毎日3人ずつ行かされるようになりました(円生病院から大和川病院へ行く交通費は個人で負担させられました)。平成6年10月ころからは、安田病院で人手が足りないため、1か月交代で毎日3人ずつ、安田病院に行かされるようになりました。平成8年5月から、私は、安田病院専属でレセプト書きの作業などの仕事を命じられました。

2.円生病院の実態について
円生病院は、患者が300名~330名入院しています。病院は、4階建ての建物で、2階には新旧2つの詰所があり、全部で5つの詰所があります。
夜勤は、大阪市立大学からパート医師が交代で来ますが、耳鼻科や眼科の人が多く、内科のことが分からず、どの薬を使うのか知らない人がいました。
看護婦は、約50名が登録されていましたが、免許証があるだけで実際にいない人や亡くなっている人もいます。看護補助者と付添婦が約32名いました。私が勤務していた新2階は、患者数が約61名いましたが、詰所には常勤の看護婦が1名で、その他に、週1回~3回のパートの看護婦が10名くらいでした。ですから、新2階の詰所はいつも2、3人の看護婦しかいませんが、看護婦がまったくいない時間もあります。3人以上詰所にいると、安田病院や大和川病院に行かされます。これらの病院に行かされるのが嫌なために、出勤している看護婦は他の人に「休め」と言ったりします。看護補助者は約2名で、付添婦は昼が3名、泊まりが2名くらいでした。
患者は老人が多いのですが、このように職員数があまりに少ないため、気がついたら患者が死亡しているといった時がよくあります。急いで他の患者のところに廻ると、他にも死亡者が出ている事もありました。とくに、福祉で入っていたり、家族の見舞いのない人が被害者となっています。また患者のなかには、3か月も診察してもらっていない人がいて「本当にここは病院ですか」と聞かれたと、ある看護婦が言っていました。

3.違法行為の数々
看護婦が少ないために、看護補助者や付添婦が看護婦の仕事をさせられています。そうした日常業務の遂行の指示は、安田基隆会長から出ています。朝礼時に、安田会長から指名され、同会長の指示で作られた医療マニュアルの内容を言わされるので、私たちも覚えていなくてはその場で怒鳴られ、さらし者にされます。それが常の状態になっていました。そこで私は、安田会長とA主任看護婦の指示に従い、マニュアルに従って処方箋を書かされ、これも薬局へ出して、薬をもらい、患者に渡すよう指示され、言われるとおり行う以外ありませんでした。また私は、血圧の測定、心電図などの検査などもA主任看護婦の指示でやらされました。
患者が死亡したときも医者が自分できちんと死亡診断書を書かず、私たちが死亡診断書を書かされました。診断書の字を見ればすぐに分かります。点滴の注射針を刺すのは看護婦がしますが、それを抜く仕事は付添婦等がやらされています。酸素吸入器の取扱も付添婦がさせられています。すべて人手不足が原因です。また円生病院・安田病院では、理学療法(650円/1回)を行ったと称して保険請求していますが、実際には、患者さんに何もしていません。安田会長の指示のとおりに、私たちがカルテに印をつくだけで、診療報酬が入ってくるのです。
円生病院は冷暖房機を使用しませんので、冬は冷蔵庫なみに冷え、夏はむし風呂のようになります。そのために、夏は夏期熱を出す患者が多く、死亡に至ることもあります。熱が38度5分を越えると、かならず「肺炎」という病名を付けますが、全くのでたらめです。肺炎を根拠づける検査などは何もしていません。マニュアルでそう指示が出され、決まっている処方なのです。病室が暑いので、患者も看護職員もこたえます。
自分で動けない患者は、介護する職員がいないので風呂へも入れません。そうすると、身体が不潔になって、疥癬(カイセン、カビの一種)ができ、かゆくて掻きむしる。よけいひどくなるから身体を四肢拘束する。そうすると褥瘡ができる。身体を動かしてあげる人手がない。褥瘡部位に雑菌が入ると、熱発する。最悪のときは死亡に至るのです。
円生病院でも安田病院でも、付添婦は、患者が褥瘡になったと安田会長にわかると給与カットをされるので、褥瘡の病名を看護婦に知らせず患者のこづかいで外で薬を買って処置をしています。
他の病院から転送された患者を診察もしないで、前の病院のサマリーで投薬するだけのこともありました。また、大和川病院の重症患者が、医師や看護婦の付添いもなく保安員が車で円生病院に運んでくることがよくあります。円生病院についたら、死亡しているときもありました。大和川病院では裁判ざたがあるので、安田会長の命令で、重症患者を円生病院や安田病院に転送するシステムとなっているのです。

4.職員に対する虐待
円生病院では入院患者が死亡したり退院すると、付添婦は2日分の給与カットがされます。そして、患者が退院した時は、患者宅へ(加古川、明石、吉野等まで)「お見舞い」に行かされ、交通費も自分持ちです。おまけに患者に「お見舞いにきて頂きました」と書いてもらわなくてはなりません。もしメモ書きを持参しないと、安田会長から怒鳴られます。
看護婦や看護補助者は、患者がひとり死亡すると、数千円から1万円くらいの賃金カットをされます。また、安田会長から、神社にお参りに行けと命令されます。お参りに行ったときに「おふだ」を買って、それを証拠品として病院のカルテに付けて、院長に見せなくてはなりません。これらは全部自費です。私も、何度もお参りに行かされるのは嫌ですから、一度に10枚買ってきたことがあります。
私たちの給料の支払明細書も「互助会費」やら理由のわからない金額が差し引かれ、納得できませんでした。羽曳野労働基準監督署に大和川病院に勤めていたBさんが訴えに行きましたが、その翌日、安田会長は朝礼で「Bが労働基準監督署に訴えたそうだが愚か者だ。私の力を知らない。」と発言しました。私やほかの看護婦は、それを聞いて、労働基準監督署や保健所などに訴えても無駄と皆で話し、諦めてきました。
今までは、看護婦の免許証を病院が返さない為、看護婦は病院を辞められないようにされていました。ところが、免許証の紛失届けを出せば、免許証の再発行ができることを誰かが思いつき、以後、病院を辞める看護婦が増えました。看護婦が減り、無資格の看護補助者や付添婦がその代わりの仕事をさせられました。また、今年の6月にボーナスが支給されず、「新しい看護婦(免許証)を紹介すれば、紹介手数料として20万円支給します。」の紙切れ1枚が手渡されました。
円生病院では、蛍光灯が切れると看護補助者や付添婦が自費で買いに行かされます。私はカルテの用紙がなくなったので自費で買いに行ったことが何度もあります。

5.監査について
大阪府による監査があるときのことについて述べます。
円生病院、大和川病院、安田病院の監査がある前は、私は安田基隆会長から安田病院に呼ばれました。その10階で、事務長、婦長と一緒に、事務長の作った架空の「出勤表」をもとに、病棟管理日誌を作るよう命令されました。実際にいない看護婦のニセ物の印鑑をポンポン押すよう指示され作りました。円生病院や大和川病院ではタイムカードがあるのに、事務長の提示した架空の「出勤表」に合わせて、事務員のCさんがガチャガチャと多数枚の「偽タイムカード」を次々押していくのです。
また、監査のときには、看護婦の健康診断書(レ線、血液検査、心電図も含む)を出しますが、実際にいない看護婦の分は、私たちのレ線や心電図を何枚も撮って、それをその人の分に当てたりしていました。また、採血も通常5cc位でいいのに、肝臓とか糖尿とかの病気を持っている看護婦も多いので、健康な私たちの分を20cc取って、それを他の看護婦の血液にして検査に出したりもしています。実際には勤務していない看護婦の免許証書も出しています。
安田病院で監査があったときは、私を含め、円生病院から看護婦、看護補助者、付添婦がかり出されます。安田基隆院長の命令により、看護補助者や付添婦が看護婦の格好をさせられるのです。私も、ナース帽を被らされ「D」という看護婦になりすますよう指示されました。大阪府の担当者から名前を呼ばれましたが、とっさに気づかず、名札を見て「はい。」と返事をしました。そして、年齢と住所を尋ねられましたが、そこまでは覚えていませんでしたので、すぐには答えられず、結局、私自身の年齢と住所を答えました。担当の人も、その事情を判っていた様子でしたが、それ以上聞こうとしませんでした。
円生病院から看護婦や看護補助者らが皆かり出されますので、円生病院は空っぽになり、患者は放ったらかしになります。監査をするなら、安田病院と円生病院と大和川病院とを同時に行うべきです。監査日の他の病院の患者の現状を考えて下さい。
また、大阪府はあらかじめ立ち入り調査の日を病院に教えているので、先に述べたように出勤表を偽造したりできます。これでは、本当の実態は絶対に分かりません。

6.安田病院に行かない理由
私は、今年6月に、「診療報酬支払基金に、安田病院の若い職員を連れて行って、教えたってくれ」と安田会長に頼まれ、大阪市中央区にある堺筋本町の国保の支払基金と梅田近くにある社会保険の診療報酬支払基金に自費で行きました(若い子が300円しか持参していなかったので、私が立替えました)。安田病院に帰って交通費実費を請求すると、「出金伝票を書いて」と事務の人に言われたので、それを書いたところ、「こんなもの支払ったことがない。」と言って支払ってくれず、以後出勤しなかったところ、2週間ほどして何度も詰め所の人から出勤して欲しいと電話がありましたので、再度出勤するようになりました。
そして、6月分の給料を給料日にくれなかったので、7月にそれを請求したところ、安田会長は、私に「2週間も休みやがって。1時間廊下に立っとけ。」と怒鳴って給料を支払おうとしませんでした。応じてもらえないのならと、私は自宅に帰りました。私の夫が、その後「給与を支払え」と安田病院に出向きましたが、安田会長が不在だといって相手にされず、それっきり給料はもらっていません。私と同じような立場でレセの仕事をしていたEさんは、昨年12月に安田病院を辞めたいので「退職届け」を内容証明で送ったそうですが、「受領拒否」されて送り返されてきたと言っていました。

7.3病院の同時立入検査の実施をして欲しい。
私は、円生病院や安田病院は、病院じゃないと思います。患者の収容所です。私たち職員も苛められましたが、1番可哀相なのは、患者さんです。このような現実をもっと社会の人々に知ってほしいと思います。この現実をハッキリとさせるために、大阪府の担当の方々は、円生病院、安田病院、大和川病院の3つの病院に、予告なしで、一斉同時に立ち入り検査をして職員数などを調べてほしいと思います。そうでなければ、今までと同じように、私たちが作らされたようなウソの書類でごまかされてしまう事は明らかです。

当センターの活動を維持し、充実させるためにご支援をお願いします。

現在、当センターの活動には、当事者、家族、看護師、PSW、OT、医師、弁護士、教員、 学識経験者、マスコミ関係者等の様々な立場の方が、世代を超えて参加しています。当センターは精神科病院に入院中の方々への個別相談や精神科病院への訪問活動、精神医療及び精神保健福祉分野への政策提言活動等を行っています。

会員・寄付について