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「精神病院はかわったか?」設立から10年間の活動経過

2020.05.09 UP

第2章 設立から10年間の活動経過

渡辺 哲雄

1 発足して活動を始めた頃

センター発足に際して直接の大きな契機になったのは宇都宮病院事件(1984(昭和59)年)であったが、大阪ではそれに先だって、いくつもの精神病院不祥事が発生し、問題にされてきた経過がある。
そのいくつかを挙げると、
 栗岡病院……1968(昭和43)年、院長らが離院を図った患者13人をバットで殴打、内1人死亡、院長栗岡は刑事有罪の後、医道審議会で医師免許を剥奪された
 安田病院(大和川病院の前身)……1969(昭和44)年、看護助手が離院しようとした患者にバットで殴るなど暴行を加え死亡させ、傷害致死で実刑判決
 大和川病院……1979(昭和54)年、看護職員3人が患者の喫煙をとがめて暴行を加え患者は死亡、精神神経学会が調査し、大阪府の指導がなされた
などである。
 大阪精神病院協会は、こうした経過の中で、1981(昭和56)年3月「精神病院倫理綱領」を制定し、その全5項目のうち第3項に「人権の尊重」と題して「私達は患者の基本的人権を尊重し、いやしくも患者の人権侵害になるような言動はしない。」と記している。しかし、残念ながらその後も、大和川病院、箕面が丘病院にみられるように、精神病院の人権軽視体質は変わらなかった。
 振り返るとこうした不祥事はこの30年間全国至るところで枚挙のいとまなく発生し続けてきた。個別の不祥事については当該病院にその責任を問うべきであるのは当然としても、同時にこれら多発する不祥事の背景には、国の精神医療政策そのものがあることは、これまで繰り返し指摘されてきた。精神障害者の隔離収容を第一とする入院中心主義である。精神病院不祥事は国が主導してきた精神医療政策の構造的基盤からいわば必然的に発生し続けてきたと考えざるをえない。
 32万床を超す精神病床によって担われてきた隔離収容政策は、精神障害者に対する社会の偏見と差別を助長し、さらにこの差別偏見が精神障害者の排斥と隔離を容認していくという悪循環をもたらしてきた。
 精神病院における入院患者の人権を擁護する活動は、こうした昭和30年代からの厚労省の収容主義を批判しその政策の根本的な転換を要求することでもあった。
 現在厚労省は精神病床の過剰を認め、72000人の病床削減をはかることを宣言しているが、2006(平成18)年4月施行の障害者自立支援法をみるとこれがはたして内実のある退院促進につながるのかどうか疑問である。

 センターの活動目標は、「精神病院における人権侵害を未然に防ぎ、発生した人権侵害についてはその実態を調査し明らかにして今後の人権擁護に資する」(設立集会基調)ことにあった。このため人権センターの私書箱を設けて人権に関する訴えを聴き、訴えに基づいて調査活動、救援活動を進めることにした。私書箱開設当初1年半のまとめによると投書38件の内容は多様であるが、精神病院での職員の暴力、暴言、強制労働を訴えるもの、強制入院に関する不服、院内の傷害事件の告発など深刻な訴えも多くふくまれていた。とくに、通信・面会の制限についての不満が大きく、これは私書箱への投書自体を困難なものにしていると考えられた。1987(昭和62)年1月からは電話による相談を受け付けることになった。ここでもまた電話が設置されていない、電話の使用に制限があるなど、人権相談をしようにもその手段そのものが奪われ、あるいは著しく制限されているのではないかと疑われた。人権センターの活動は、その出発点において、このように通信の自由が制限されている中で、どのように入院中の患者の訴えをきくのか、という困難につきあたったのだった。

2 木島病院問題と大阪府との交渉

 1986(昭和61)年10月、貝塚市の木島病院と大阪市西成区福祉事務所の職員とが関係する贈収賄事件が明るみに出た。西成地区の行路病者などが救急入院した後に木島病院などにアルコール中毒などの診断で収容することにつき、職員が病院の要求に応えて便宜を図っていたというものである。問題になったのは木島病院だけではなかった。当時複数の精神病院が西成地区からの患者の入院先として西成福祉との癒着関係にあったのである。さらにこの逮捕された福祉職員は、病院事務長と結託し入院中死亡した生活保護患者の「遺産」である金を着服していたことも発覚し業務上横領の罪にも問われた。
こうしたことが病院と福祉の大がかりな癒着関係として問題にされ、メディアは「あいりん汚職」と呼んだ。人権センターは、当時西成の労働者の医療と生活を守る活動に取り組んでいた釜が崎医療連絡会議とともに、大阪府と大阪市に対して、事件の背景にある構造的問題についての見解を質し、行政としての責任を問う公開質問状を提出した。同時に入院中の患者に対する面会活動を開始した。1987(昭和62)年2月には数名の患者との面会を通じて、木島病院内では過剰な行動制限、暴行、劣悪な処遇などの人権侵害が日常化していることが明らかになった。センターは大阪市立更生相談所、西成福祉事務所、西成保健所などとの交渉の場を設けた。病院との交渉の結果、3月には5人の15年を超える長期在院の患者が退院することができた。また入院中の7人の患者については精神衛生法37条に基づく実地審査を請求した。

 木島病院の問題について大阪府との交渉が行われた。
大阪府衛生部地域保健課に対するセンターの要望は次の点であった。
1.精神衛生法37条による実地審査を全入院患者におこなうべきである。
2.通信・面会について厚生省の「精神病院入院患者の通信・面会に関するガイドライン」(85. 10. 19)および大阪府の「同『ガイドライン』への対応について」(86. 7. 23)に沿う改善を病院に指導すること
3.市町村長の同意による「同意入院」の保護義務の内容は何か明らかにすること
4.病院の情報について、「病院月報」の内容を公開していいただきたい
これに対する大阪府の回答は、
1.法的に不法の入院はない。病院は府に協力的であるので精神衛生法37条による実地審査は考えていない
2.ガイドラインについては、公衆電話を設置すること、手紙の投函経路を明確にすること、行動制限を行った場合の理由をカルテに記載すること、面会時に看護者などの立ち会いは止めることなどを指導する。センターの指摘する暴行、使役、薬物の濫用などの事実はみられなかった
3.木島病院においては入院患者の約半数の250人が市長同意入院である。市長の保護義務の具体的内容については結論がでていない、市によっていろいろなレベルがある、同意入院担当者会議をもって検討している。
4.これを公開すると今後必要な情報および関係者の理解協力が得られなくなるなど精神衛生行政の公正かつ適切な執行に著しい支障を生じるおそれがあるので公開できない。
この当時、大阪府は精神病院に対してきわめて消極的な指導に終始し、すすんで精神病院と行政機関の構造的癒着の基盤を洗い出し、抜本的な改善を図ろうとする姿勢に乏しかった。ユーザーである患者や家族の立場に立つのではなく、精神病院とその経営サイドにばかり配慮する態度にはしばしばイライラさせられたのであった。

3 「市長同意入院」と対大阪府交渉

 あいりん汚職の対象になった患者の多くは当時の「同意入院」のうちの、「市長同意」の患者であった。旧精神衛生法では、その第20条、第21条、において「同意入院」(現精神保健福祉法の医療保護入院)の規定があり、保護義務者(現精神保健福祉法では保護者)がないときは市町村長がこれにあたると規定されていた。
1984(昭和59)年における大阪府の年間の新規の精神病院入院者は16000人であり、その9割が同意入院であった。そのうち市長同意による入院は1510人であったから全入院数の約1割は市長同意であったことになる。
この1510件の市長同意を地区別にみると約半数の870件が大阪市長によるもので、なかでも西成区が325件、浪速区83件、港区47件などが多く、西成区は325件のうち行路の患者が95件であった。大阪市の37%を占める西成区の行路を中心とする患者が市長同意により精神病院に入院させられていたという背景がうかがえる。
大阪市は従来から市内に精神病床が少なく、入院患者の多くは市外の精神病院に入院するのであるが、同年度の統計によると、大阪市内の患者の38%は泉州地区の精神病院に入院していたことがわかる。
こうした背景から「あいりん」汚職にいたる精神病院と区役所の癒着関係がつくられていったことが理解できる。木島病院では入院者の約半数が市長同意であった。大阪府下全体の入院の内市長同意の占める割合が約1割であることを考えると、木島病院への集中は異常であったといえる。
これらの市長同意の患者の入院期間をみると、5年以上が7割、10年以上が5割であった。市長同意の患者に長期在院の傾向があったこともわかる。市長同意の患者はいったん入院するとそのまま放置され、福祉事務所や保健所職員の訪問もなく、退院の希望もなく収容されつづけてきたのである。

 和田充弘市会議員、川口まさる市会議員の仲介により1987年(昭和62)2月から1993(平成5)年3月まで計20回の対大阪市交渉を重ねた。交渉の席に座ったのは主として環境保健局主管、民政局主査であった。市長同意入院においては市長は強制入院に同意するだけで、その後は面会にも行かずに放置し家族に代わる保護義務の履行を放棄してきたことをどう考えるのかと質した。市長同意患者の多くは生活保護受給者であるが、福祉事務所からの面会もなくまた居住地域の保健所職員の訪問もなかった。昭和60年の保健所精神衛生相談員の年間5931件の訪問のうち病院への訪問は16%にとどまる。しかも市外の病院への訪問はわずかに99件に過ぎなかった。
市は交渉の中で訪問の必要性を認めたが、次には訪問した際に患者に何を尋ねるのかが問題になった。市は形式的な質問に加えて単に「患者の要望」を聞くというだけだったが、検討の結果、面会の有無、通信の状況、外出の有無、開放・閉鎖の別、小遣いの管理状況、退院の見通し、任意入院に切り替えが可能かどうかなどを主治医に確認する、などを内容とする「状況把握表」が作られることになった。
その後の市長同意の同意書発行件数の推移は次のようであった。
昭和59年 870件
60年 851件
61年 831件
62年 733件
63年 320件(同年7月精神保健法施行)
平成1年 150件
2年 140件
3年 148件
精神保健法において任意入院の規定が導入されてから市長同意が急減している事は明らかだった。昭和60年851件のうち西成は364件(42.8%)であったが、新法施行後は市立更生相談所経由の市長同意はゼロになっていた。同時に入院中の市長同意は任意入院に切り替えられた。市からの面接件数も平成1年776件から平成3年441件へとこれも顕著に減少した。市は、法をタテにとって実態としての患者処遇状況を無視して単に機械的に任意入院への変更を進めたようにみえる。市更生相談所の患者は法の改正前は一律に市長同意であったが、改正後は一律に任意入院である。しかし任意入院のうち52.9%は閉鎖処遇であった。大阪市は患者自身が入院先の病院でどのように処遇され、どのように治療がすすみ、いつどのように退院するのかということに積極的な関心をもって政策をすすめているとはとうていみえなかった。

4 個別病院との交渉経過

 患者からの訴えに基づいて、個別病院との交渉がもたれた。
A病院……1986(昭和61)年~1987(昭和62)年
A病院の院長は当時大阪精神病院協会会長であり、1987年4月には日本精神病院協会会長に就任していた。病院は9病棟すべてが閉鎖病棟であった。公衆電話は4台しかなかった。電話はすべて看護詰所の中に設置されているために患者が自由に利用できる状況ではなかった。電話をかけるための金銭の所持は許されず、そのつど詰め所に小銭をもらうことになっていた。信書は自由であるというが便箋、封筒、葉書、切手などを自由に手に入れることはできなかった。面会には職員が立ち会っていた。こうした点について、いずれも改善の約束がなされた。
B病院……1987年
当時病院案内のパンフには、入院後2週間の一律の面会禁止や、電話口には患者は出さないなどの院内規則が記載されていた。厚生省の通信面会に関するガイドラインが公布されたのが1985(昭和60)年10月19日、これを受けて大阪府入院患者適正処遇研究会が「ガイドラインへの対応について」を発表したのが1986年7月23日であることを考えると、1988(昭和63)年3月時点の病院パンフレットは大阪府の基準による指導などなかったに等しいことがうかがえるのである。こうした病院案内は入院治療のはじまりから患者と家族を萎縮させ、人権軽視を甘受させるように導き、差別と偏見の土壌を作ってきたのである。さらに「外出に伴う誓約書」には次のように書かれている。
「此たびB病院より患者の病状がかなり軽快しつつありますので外出許可して頂きますが、外出同伴者が患者さんと同伴し外出中も軽快したとはいえ精神障害者でありますので、同伴外出中に万一不慮の事故が発生しない様十分気を付けますが、万一に自傷、加害行為、器物損壊、等が突発し損害が発生しました場合、私が全責任を負います。何等B病院側に御負担及迷惑は一切お掛け致しません事を誓約致します」
単に注意を促す範囲を超えてなかば脅されているようなひどい誓約書であった。
この他、いくつかの病院と交渉がもたれたが、この活動はのちに「ぶらり訪問」につながっていくことになった。

 

5 差別条例廃止と入院患者の選挙権の問題

精神障害者であるということだけで法的に差別されるのは合理的理由がない。にもかかわらず大阪府下の多くの市町村の条例や施行規則には、「精神障害者はプールにはいれない」「精神障害者は図書館に入れない」など、公共の施設から精神障害者を排除する不当な差別条項があることが問題になった。これらの差別条項が実際に適用されて精神障害者が入場を拒否されたなどの具体的事例はきかないが、こうした排除規定の存在が、精神障害者にたいする差別と偏見を助長してきたであろうことは疑いない。
人権センターの調査によると、貝塚市など府下19自治体(13市、5町、1村)において差別条項が存在することが明らかになった。また、こうした差別的条例・規則にはモデルがあり、それは自治省による「市町村例規準則集」であることもわかった。
センターは1988年4月、上記各自治体および自治省に対し差別条項の撤廃を申し入れた。その結果、多くの自治体から問題の条項を撤廃、あるいは撤廃を検討中であるとの回答を得た。
差別条項の例を挙げると、教育委員会会議規則において「精神に異常があると認められる者は会議を傍聴することができない」などの規定がみられたが、同様に精神障害者を締め出す規定を設けていたのは、図書館、公会堂、労働会館、体育館、プール、キャンプ場、公民館、市民会館、青少年の森、総合福祉センター、老人福祉センター、集会所、教育委員会傍聴、公平委員会傍聴など多施設に渡っている。19市町村を通じてもっとも規定が多かったのは教育委員会傍聴の12市町村であった。
こののち総務庁は全国自治体を調査しその3分の1以上に、精神障害者が公的施設を利用することを禁止ないし制限する規定を設けていることを認め、これが「精神障害者の人権を損ない、社会復帰の阻害にも通じる」としてその改善を指示した。

 入院中の患者の選挙権については、それが保障されていないこと、また投票が保障されても特定の候補者への投票がなかば強制されているという実態が訴えられていた。
山形県のある病院では職員が患者になりすまして投票するということさえ行われていた。
こうした状況にかんがみて人権センターは中央選挙管理委員会と、大阪精神病院協会あてに要請書を提出し、入院中の患者の投票権の保障を訴えた。1989年7月参議院議員選挙を前にして提出された要望書はおよそ次のような内容であった。
「精神病院に入院中の患者に投票権を保障するために指定病院における不在者投票の制度が設けられており貴協会においても27病院が指定病院になっているときいています。ところがこの指定病院における不在者投票の際、病院職員が代筆したり病院管理者らによる誘導や強制が行われていたという情報が当センターに寄せられています。憲法に保障された権利が侵害されることのないように指導されるように要望します。
上記指定病院以外の病院に入院中の患者は投票日当日に直接投票所にいって投票する以外に方法はありません。しかし、閉鎖病棟に入院している患者やそれ以外の開放病棟に入院している患者についても選挙権を行使するための配慮がほとんどなされていない実情にあります。つきましてはこの権利を保障するために投票日当日の外出や外泊を保障し、あるいは付き添い態勢の手配など患者の投票権行使を支えるための措置をとるように指導されることを要請いたします。」
これに対し大阪府選挙管理委員会から、要望書の主旨に添った適正な選挙管理を行いたい旨の回答があった。この問題は今日でも選挙のあるごとに注意を喚起すべき課題である。

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